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「島津義弘の賭け−秀吉と薩摩武士の格闘−」(山本博文著、読売新聞社、一九九七年八月初版、一二月第二刷、一八〇〇円)を読む

 慶長五年(一六〇〇)九月一五日、天下分け目の関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされた。太閤秀吉亡き後のやり手の年寄(奉行)、石田三成は大谷吉継の援助を得て西国諸大名と結束し、毛利輝元を総大将にして、豊臣家五大老の筆頭徳川家康と対峙した。この天下分け目の関ヶ原合戦の最中に殆ど動かず、西軍の配色が濃くなってから家康軍の中央突破を計った奇妙な一団があった。後に「島津の退(の)き口」と言われ、敵陣中央突破の破天荒をやってのけたこの一団を指揮した武将が島津義弘である。
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 この本は、ぺりかん社の救仁郷建社長から是非にと言われて真夏の熱射が容赦なく照りつけるこの七月の寝苦しい夜、毎晩寝る間際になってから読み始めて途中何度も同じページを繰り返し読み直して消化不良のまま何とか読了したという体たらくなので、紹介することしかできない。

 山本博文氏の本は、「江戸お留守居役の日記」(読売新聞社、一九九一年)を読んだことがあるが、江戸時代のお留守居役の日常が微にいり細にわたって描かれていてとても面白く読ませていただいた。「島津義弘の賭け」も第一級の史料である島津家文書(国重要文化財)を丹念に活字化して訓註が付してあり、素人のために読み下し文も平易且つ丁寧である。

 島津義弘は、「天文四年(一五三五)に薩摩・大隅・日向の三国の守護島津貴久の次男として、薩摩国阿多郡伊作の丸亀城に生まれた。母は入来院重総の女で、雪窓夫人と称される。」「勇武英略をもって傑出した」武人でありながら、秀吉の命に服して上洛した京都から、或いは艱難辛苦の朝鮮から妻に宛てた手紙の数々は、感動もの。長男義久・三男歳久・四男家久の島津四兄弟は、よく結束して三州を支配していたが、九州統一を目前に秀吉軍に完膚無きまでに打ちのめされる。が、成り上がり者の悲しさ、羽柴秀吉は伝統ある島津本宗家と家臣団に武力では勝っても徹底的に滅ぼすことはできなかった。島津義久は剃髪して龍伯と号したが、豊臣政権の命には服さず徹底してサボタージュする。秀吉は石田三成、安宅秀安と通して豊臣政権への服属支配を強め、太閤検地、刀狩り、と天下統一への政略を具体的に推し進めて行くが、この辺りから豊臣政権にたて突く島津本宗家とその家臣団と豊臣政権に服属することが島津家の安泰に繋がるとする義弘たちとの齟齬が大きくなり、結束は乱れ、島津の有力武士団である渋谷諸氏、北郷氏、伊集院氏らと袂を分かつような事態に追い込まれて行く。
 義久・義弘の兄弟関係も複雑である。朝鮮出兵で苦労する島津義弘・久保親子が何度も食糧や兵の増援を依頼しても義久は頑として拒否に近い対応をする。秀吉の命に服して朝鮮へ出兵しなければ島津家そのものが改易されかねない、そんな状況下であるにも関わらずである。「朝鮮への出陣は、どこまでも義久や御家のためを思ってのことである。それなのに鹿児島方(義久のひきいる本宗家)からの支援がまったくない。これは御家を傾ける所行である。『無念千万』という義弘の言葉は痛切である。」義弘親子は、異郷の地で食糧も乏しく果てしない闘いに明け暮れていたが、文禄二年(一五九三)九月八日、二一歳の若さで跡取の次男久保が朝鮮巨済島で病死する。義弘は慟哭するが悲しむ間もなく、三男忠恒が京都伏見城で秀吉に謁見し正式に島津家の跡継ぎとして認められ朝鮮に出陣してくるのを迎え出る。
 結局、義弘・忠恒親子は、秀吉の死後無事薩摩へ帰ることになるが、島津本宗家義久の後継者は、義弘の次男忠恒を養子に迎えることになる。この忠恒が義久にそそのかされて伊集院幸侃を殺害したことから幸侃の息子忠真が庄内(都城)に立て籠もり、父幸侃の成敗(殺害)について、自分は義弘・忠恒に身の処遇を聞きそれに従うつもりであったのに、義久が納得せず庄内への通行を禁止し境目に放火している始末です、と義弘に訴え出て仲介を願い出でるが、事の是非よりも島津家の安泰をひたすら願い、島津本宗家義久を敬う義弘の反応は冷たく、忠真を不憫に思いつつも説得は功を奏さなかった。忠真は徹底抗戦し(庄内の乱)天下人徳川家康の援軍をもってやっとのことで調停が成立し、慶長五年(一六〇〇)三月一五日、忠真は都城を退去した。都城は北郷家に戻され、伊集院忠真は薩摩半島開聞岳の麓に移されることになった(その後、忠恒によって忠真、母親、弟たちまで殺害される)。この庄内の乱をもって「豊臣政権下の一三年間に行われた島津家の体制変革は、秀吉死後わずか一年半にして旧に復したのである。」「その本質は、島津家内部に押しつけられた豊臣体制の否定であった。」
この慶長五年九月一五日には、関ヶ原の合戦が起こり、島津義弘は僅か二〇〇の手勢で参戦することになるが、西軍に味方した島津家がその後どのような命運を辿るかはこの書を読んでいただきたい。
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この手の一次史料をつかった作品は、読むだけでも骨が折れるが、疑問点がない訳ではない。種子島に辿り着いたポルトガル人の鉄砲が何故島津氏によって実戦に実用化されなかったのか、細かい点もあるが、一国の経営はことほどさように難しいことがよく分かる。資本主義的合理性が徐々に形成されつつあった時代の、流れが大きく変わりつつあるなかで、その方向を見定め、経営の舵取りを誤らず一国を統御することは至難の業であることをこの書はよく伝えている。

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