きっかけはどちらも子どもか
最近の2つのニュースで思うところ。
その1。秋篠宮妃の紀子さんにお子さん誕生。
想像していたとおりの報道である。「男児でとにかくおめでたい」報道のなかで、皇室典範を改正するのか否かについてはいくつかコメントが出るけれども、天皇制そのものへの疑問や批判的意見は報じられない。国民全員が同じ感情を持っているかのような皇室に関する報道には、いつも鼻白む。ベビーに対してまでも敬語を使っているアナウンサーには、滑稽ささえ感じた。
人が一人この世に生まれたことについて、批判するつもりは毛頭ない。めでたくないとも思っていない。ひとりの人間として、良かったなと思う。けれども、公正・中立を報道のスタンスとして持っているメディアにおいて、敬語を使われる人間と使われない人間と分かれていること自体、堂々と「日本国民を2つの層に分け」(安倍晋三氏のコトバ)ていることになるのでは? 愛育病院も来年まで予約でいっぱいというが、皇族であろうがなかろうが区別せず、同レベルの配慮を妊婦さんと生まれてくる赤ちゃんにしてほしいよなぁ……などとつらつら思いながら、おめでた報道のすき間で報じられている出来事を探す。
報道が同じテーマに流れてしまうメディアの構造およびその問題については、元朝日新聞カメラマンで現在は目白大学教授の松本逸也氏による『一極集中報道 過熱するマスコミを検証する』に詳しい。メディア批評の単行本は最近お目にかかることが少ないが、それでも問題提起する本を出していきたいと思う。
その2。飲酒運転。
福岡で小さなお子さんが3人、亡くなられた。かわいらしい写真を見ると、私も涙がほろり。助けることができなかった両親の胸の内を思うと、いたたまれない。両親を一度に飲酒運転による交通事故で亡くし、祖母に育てられている8歳の子どもの話をテレビで観て、またまた涙が出た。かわいい子どもを残して、こんなことで死にたくなかったろうに。しかしその後も飲酒運転による事故が起きている。「自分は大丈夫」とでも思うのだろうか。
私は免許さえ持っていない。子どものころ遊園地のゴーカートに乗って後続車に迷惑をかけて以来、私は免許を取らないだろうと思った。幼いときの話とはいえ、このような音痴では本当の車を運転したとき、絶対、事故を起こすだろうと覚悟したからだ。郷里は田舎なので、田舎にずっといたままであればもしかすると日常の不便さに負けて、今ごろは車を使っているかもしれない。幸か不幸か東京に出てきて車を必要としない生活環境にいるので、いまのところ何とか事故を起こさずにすんでいる。
それにしても、「飲酒運転による事故=危険運転致死傷罪の適用」というのは、あまり安易に過ぎないでほしいと思う。確かに報道されるのは残酷なものばかりで、立件してより重い刑罰をという感情が市民も警察も検察も先走るのはわかるが、とくに取調べや実況見分、鑑定などでは担当の方々に冷静に行動してもらいたい。
車を運転しない私が言うのも説得力に欠けるので、次の文献を紹介したい。小社で季刊(1・4・7・10月)で発行している「季刊刑事弁護」に、交通法科学研究会が連載している「交通事故弁護請負い講座」である。交通事故に関わった弁護士が報告をしているのだが、危険運転致死傷罪をはじめ、いろいろな問題提起をしている。とくに車を運転されている方には、一読をお勧めしたい(弁護士でなくても読める)。
さてタイトルの「きっかけはどちらも子どもか」。なぜに子どもにひっかかるのかと言うと、私も妊娠中だからである。涙もろくなったのもそのせいだ、きっと。齡の故ではなかろう。これからしばらく、妊娠と出産という多くの方がされているが私の人生ではあと1度か2度、あるかないかという経験をする。犬や猫でも1匹で産んでいるんだから大丈夫であろうと、(このことに関しては)のほほんと過ごしている。