歴史よ、お前は……
人の一生においても、過去の苦しい記憶、悲しい記憶、そして何より忌まわしい記憶がいつの間にか霞んで、あったのかなかったのか定まらぬ遠い風景と化してしまうことがままある。それは自分自身を追い込まないように、脳自身が仕組んだ本能的自己防衛なのであろう。そうしたプロセスで、過去の景色は塗り替えられ、心のうちに潜む棘はいつか鋭利さを喪失し、時には存在をすら不確かなものにしてしまう。
個々人の「個人的体験」であれば、それはそれでいいのだろう。それを許さないものがあるとすれば、その「体験」の社会性であり、歴史性であり、また論理性であろう。そこには「個人」というレベルで測ることができない、「社会的人間」としての、もっとわかりやすく言えば、「影響力(権力)を行使し得る人間」としての、「歴史」というスクリーンに刻まれた責務が存するのである。
およそ60年前、第2次世界大戦当時の体験によって、かの実存主義哲学者ハイデガーもまた、こうした歴史の復讐から自由でなかった一人として永遠に記憶されることになった。ヒトラーが政権をとってからの彼の熱烈なヒトラー支持、ナチ党支持はつとに有名だが、そればかりではなく、ナチ党員としてフライブルク大学の学長に指名され、権力を存分に行使する側に完全に立ったのである。
ナチの政治的キャンペーンの先頭に立ったハイデガーは、戦後の「責任追及」に対して、(ナチには)「深入りはしてない」などと、過去の自己の言動に対して欺瞞と沈黙で乗り切ろうとし、最後まで遺憾の意を表明することはなかった。そしてそのことは、彼の哲学者としての政治生命を奪い、社会的死を意味していたのである。
しかし、ハイデガーは当時のドイツにおけるこうした猫かぶり組の象徴的存在でしかなかった。知識人、官僚、教育者、学生、そして一般市民のなかに、無数のハイデガーがいたことがわかってきた。アメリカの社会政治学者クローディア・クーンズが著した「ナチと民族原理主義」(青灯社・06年4月刊)には、自ら進んでユダヤ人排撃・抹殺に向かう一般的にして「良心的」なドイツ国民(市民)の姿が、まざまざと描かれている。当時の記録を幅広く、且つ膨大な量を集めた本書は、今まで「忘却」と「沈黙」の彼方に埋もれていた当時のドイツ市民社会を、余すところなく再現している。先述したハイデガーのナチ時代の言動もここに詳しい。
それだけでも貴重な史料であるが、読み進むうちに、逆に戦前・戦中の日本を照射し、合せ鏡を見る思いに捉われるのはわたしだけだろうか。確かにこうした「忘却された歴史」はドイツに限らない。日本の軍国少年・少女の抱いた「軍国主義的(国家主義的)良心」とこの本の原題でもある「ナチ的良心」との差異がどれほどのものであったのわたしにはわからない。
こうしたナチ時代のドイツ人(と、あえて言うが)の足跡から見えてくるものが、歴史的に、人間にとって最も触れたくない潜在的心的「棘」であることは認めざるを得ないだろう。著者は繰り返して欲しくない歴史を前にして、最後にこう締めくくっている。
「二十世紀後半、植民地帝国の解体とソビエト体制の崩壊過程で、人種紛争や宗教、部族がらみの地域分離主義が発生した。それは、ナチズムが部族主義の先祖返りの最後ではなく、民族原理主義の先駆であったことを物語る。(中略)民族原理主義者は、宗教、文化、人種あるいは言語のきずなを作り直して、危機に瀕しているように見える価値体系と真正な伝統を守る聖戦のなかで、政治と宗教を一体化する。」
(お断り—以上の拙文は5月下旬の「ウィークリー出版情報」(日販図書館サービス刊)に掲載されたものを若干補筆したものである)
自ら書かれた新刊の書評が好評とお聞きし、自社の書評を書くというのも出版社らしい日常かと思い掲載をお願いしました。
版元日誌担当 イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ企画 山田成海