単純な残酷さであること
「これははたして戦争なのか。」
3月20日、米英(日本)側とイラクとの戦争が始まる。連日、テレビや新聞にて、戦地の状況、デモ、討論、記者会見が報道される。そのことに対し、知人は『最高の戦争映画』と皮肉った。なぜ、戦争映画においてデモが起きないのか。世論が動かないのだろうか。分かり切って忘れがちな事を、彼の言葉は立ち止まらせてくれる。また、私たちにおけるこうした情報は、発信者でない限り消極的であれ積極的であれ、受動的であるしかない。そして受動的である限り私たちはリアルであることができない。そこに情報操作の危険が孕まれている。そのことを避けるためには、私たちは常に情報の発信者となること、つまり戦争に対する明確な意思表示をすることが大切なのだ。リアルとバーチャルの境界が不透明な今日において、そのことは益々大事なことになってきている。けれど私たちも、ブッシュ大統領や小泉首相と同じく、情報の上にいることを忘れないようにしたい。そして、彼らとの違いは、彼らは外交(権力関係)という形態をとって戦争をする。というよりも外交(権力関係)のための戦争をしているようにしか思えないことだ。そして私たちは(権力関係)ではない、人と人の繋がりとして反戦を訴える。権力関係の本質はフェティッシュなものであり、それゆえ暴力に対して不感症である。それに対する私たちの人と人との繋がりは生や生活を基盤にしている。それは暴力を根本的に否定する。
「戦争状態とは」
どこからどこまでが戦争なのか。多分、戦争は戦争をするものだけでなく反戦をするものも含まれている。私たちは直接的ではないにしても情報として戦争に否応なく参加させられる。そして戦争の内側に取り込まれてるからこそ、私たちはそれに「否」をつきつけるのだ。戦争のない状態、それは反戦のない状態でもあるのだ。
「一つの観察(戦争言語群の分布について)」
先ほど述べた戦争状態についてを、少し違う角度からみてみます。私たちの見たり聞いたりする情報の中にどれほどの割合で戦争言語群が分布しているのか(正確にはこれらの言語群が受信体としての私たちに突き刺さってくるかどうか)によって戦争状態を把握することができる。イラク、バクダッド、フセイン、ブッシュ、ミサイル、地上戦、空爆、ニューヨーク、デモ、同盟、小泉首相・・・・・・。これらの言葉が日常性のなかに(飲みに行くとき、遊びに行くとき)、無差別に侵入してくる頻度と強度が戦争状態をつくりだしていく。また、戦争と親和力のない言葉までもが戦争という言葉に冒される。国の名は昨年まではサッカーと強い親和力をもっていた(これはこれでどうかと思いますが・・・・・・)のではないだろうか。これら「戦争」という言葉に取り組まれてしまった言葉を解放していくこと、そのことを戦争に対して否をとなえる物を書く人々は意識していくことが大切なのでしょう。
誰にも渡れぬ川がある
みなごろしにすればよい
笑顔が消える
誰も浸ることなき水がある
みごろしにすればよい
声が消える
インドでは
遠い地からカルカッタへと
駱駝が人とともに歩いてゆく
市場にはいつも女がいた
市場にはいつも母がいた
(「戦争」)
私事ですが、詩を一編。
「9.11」以降、沖縄のひめゆりの塔を訪れ、戦争とは何なのかを考えてみました。けれど、言葉が売買されるこの国にいて書くだけの力量が私にはなく、戦争という言葉を外部からみつめられる場所を求め、今年の1月にインドへ行きました。戦争において「女」は母であること、姉であること、妻であること、働くこと、あらゆる立場を奪われて犯されてゆきます。この詩において不在である「男」は男であるという根元性を覆い隠して人(という欺瞞)の立場で破壊し「女」を犯していく。また、戦争において、決定権を持つ殺す者と殺される者(敵,味方)が奇妙な関係性の上、一緒の道を歩いていく。そして戦争という複雑に見えるものが、本当は単純な残酷さであることを訴ようと思って作った作品です。作品の稚拙なところはお許しください。