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貧しさと自由—躁鬱病的・逆説的・ソフィスト的考察

○月×日 雨、鬱の日
『カンダハール』(モフセン・マフマルバフ監督)を見る。同時に『闇の子供たち』(梁石日著・解放出版社)を読了する。両者に共通するテーマ、「貧困」あるいは「貧困と自由」について考えさせられる。
 貧困と犯罪が結びつくのは場所、時代を問わないが、それは貧困が良心を麻痺させる結果であろうか。いや、良心そのものの在りようが問われているのではないのかと、この二作品を見て思った。すなわち良心とはそもそも相対的なものであって、その人間の置かれた状況に規定されるのではないか。あくまで「許される限りの」それでしかないはずである。
 人が他者の生存を犯したり、他者の所有物をかすめ取るという行為はモーゼの時代からタブーである。それは人がおのれの防御策の延長線上に社会の秩序を描いてきたことを意味する。そして防御とは究極的には力である。法もまたその本質は力である。
 当然のことながら法と良心は無縁である。法が人間に対して制約を課すのはその契約性(報復性と解してもいい)に起因する。また宗教や道徳律は限られた場での規範として一定の「社会的良心」を要求する。しかし、こうしたものが犯罪に対して有効な力を発揮するには、その人間の行動空間のなかで絶対的秩序を獲得している必要がある。
 作品の舞台であるアフガニスタンやミャンマー(ビルマ)のように、法さえもが相対的存在でしかない世界では、生きるための闘争の前に法も道徳も無力であり、「良心」もまた枯渇せざるを得ない。ここでは大人も子供も「殺すな・盗るな」という不文律から自由なのである。パラドクサルな言い方になるが、「貧困を前にして人は自由である」。もちろん、そこには殺されない、盗られない自由を持てない弱者も多数いるのではあるが。
 古人曰く、「自由とは必然性の洞察である」。ここに言う「自由」とはほど遠い「自由」ではあるが、おのれの生存権のために他者の生存権を奪う「自由」がここにある。「貧困を前にして人は自由である」—うーん、やっぱ詭弁かなあ。
 さて、『闇の子供たち』について少し語ろう。梁石日が切り取ったミャンマーの現実はあまりに厳しくすさまじい(これこそ読まないとわからない)。21世紀の奴隷制がそこにある。労働力を得るための人身売買ではなく、人の命そのものが商品化される社会なのである。
 梁石日も現にあるこの生き地獄を前にして、対する主人公として、まるでジジフォスのごとき博愛主義者の像しか結び得ていない。読み終えて、「これで終わるのカヨ!」と呟いてしまったが、わたしにも作者以上の光は見つけられない。それにしても、この本も『カンダハール』も終わり方がいまいち気に入らないなあ。

○月×日 晴、躁の日
サンサン』(曹文軒著・てらいんく)読了後、岩波ホールにて『草ぶきの学校』(徐耿監督・原作『サンサン』)を見る。思わず「貧乏はいいなあ」とため息。人が人に対してまっすぐな愛情を貫くには、物質的な豊かさが充満している社会では不可能ではないかと思ってしまう。現代社会(日本だけではないだろうが)に生きる人々は、どうして他者の思いや息づかい、眼差しに注意しなくなったのだろう。どうしてこんなに時間が速くなったのだろう。そんな思いにとらわれたのはわたしだけだろうか。
 中国革命(1949年)から10年後ぐらいか、水郷地帯の小さな村を舞台にしたこの物語には、確かにわたしたちが忘れ去った何か、いや忘れてはならない何かが込められている。人が人を愛するということの意味を、子供同士の友情に、親と子の絆に、そして恋する若者のひたむきさに、見事に描ききっている。ここには作り物ではない、自然のままの人間の実像がある。
 これは全ての人が貧しいからこそ作りうる人間関係なのか。物質的欲望に(無縁とは言わないが)ほど遠いところにいる人間の連帯感や愛情表現は無条件に美しい。特に主人公・サンサンは伸び伸びとしていい子であり、時として悪い子である。1950年代の日本にもこういう自然児はたくさんいた。自分を取り巻くモノや人にストレートに反応し、恐れを知らず、かつすぐに他者の気持ちに同化できる子供は、それを眺めるだけで、一時の癒しである。是非とも味わって欲しい作品である。
 さてテーマに戻ろう。『サンサン』の世界の貧しさと、『闇の子供たち』における、他者を犯すことに何のためらいもなくなる「貧困」と何が違うのだろうか。貧乏はそれ自体相対的な概念である。経済的水位が等しく低い空間では誰しも自分のことを貧しいとは思わない。物質生活の格差がほとんどない社会では、人は勤勉になろうとも思わないし、がんばろうともしない。現代的な物欲の緊縛から自由なのである。精神的抑圧から解放されたこの「自由」は何ものにもかえ難い豊かな「自由」なのだ。したがって、『サンサン』の登場人物たちは等しく「貧乏」ではあっても「貧困」ではないのである。
 またしてもパラドクサルな表現になるが、モノのないことはある意味で豊かであり、その精神的な自由さはいまとなっては貴重である。これこそ、前出古人の言う「自由」に近い。「貧乏を前にして人は自由である」これは詭弁ではない。

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